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今朝は、久しぶりに早起きできました(普段より約1時間早い)!

にもかかわらず、いろいろなことで混乱に巻き込まれ、朝ごはんの支度が整ったのは普段より1時間遅れです。

健康診断の日など、朝ごはん抜き以来の遅い朝食になりました。

その混乱とは、

①ロボットクリーナーが掃除をしてくれていなかったので、説明書を見ながら対処法を試しているうち時間が過ぎて、

②冷蔵庫の棚が汚れているので拭くと、外した棚がもどらなくなって、

③食器洗い機が作動していなかった(スイッチを押し忘れていた)ことです。

電化製品の説明書を読んだりして、「めったに、手入れもせず動いて当たり前のようにあてにしていたけれど、本当は、こういう仕組みがあって支えられていたんだ。」とあらためて思いました。

USJのジェットコースターも、緊急停止のニュースが報道されていました。

いつもどおりにいかないことって、意外とたくさんありますよね。

子どもは、毎日、学校へ行くのがあたりまえ、っていうこともないのも当然かもしれません。

行けなくなることもあるけど、どうやって休むか?も本人にとっては、ちょっとした鍵になりますね。


バベルの塔の話をご存知でしょうか?

雲の上にまで届くほどの塔を建設していた人間は、神に対抗するようになったということで、

言語を乱され互いの言葉が通じなくされてしまったということです。

このような塔を建設するところの、どこがまずい結果につながったのでしょうか?

この話の少し前には、ノアの箱舟の話があります。

大洪水から避難するためにアスファルトで固めた箱舟を作ったノアたちは助かりました。

バベルの塔は、洪水が押し寄せても、てっぺんに住んでいる人は助かると考えられたのかもしれません。

箱舟と塔は、どこか違います。

洪水災害の場合、箱舟ならその中にいれば全員助かるのに対して、塔は上から順に助かる可能性があるところでしょうか?

社会の構造も学校社会も

バベルの塔ではなく

ノアの箱舟のようなところなら

住みやすいはずなんですけどね。


古き良き時代といえば、私自身が子どもだったころは、路上で近所の子供がたむろして遊んでいるうちに、顔見知りの大人もできていました。

当時は、交通事故や危険な場所での事故、また不審者と出会って事件に巻き込まれる心配がありました。

そういうことから守るためだったのでしょうか、子どもたちが、外で遊ばなくなって人間関係が限られていくようになっていきました。

今は、ネットが使えても、ネットで不審者と出会う心配が前提条件として考えられようとしています。

交通事故は教育によって少なくなっているのではないでしょうか。

不審者や危険な場所を察知する感覚も、教育によって身に付けられるようにする取り組みもあります。子どもの自由を守る結果につながるでしょうし、子どもの成長にとって望ましいと考えられています。。

ネット上で不審者を見分ける能力も、大人になるために必要になってくるかもしれません。それならば、やみくもにネットを制限することで、危険を察知する機会を奪い、かえって子どもの成長を阻む結果が生じることも考えられます。


上を見上げると、冬空が広がっていますね。

色でいうと、水色と白にグレーの三色で描ける日が多いみたいです。

一面に薄いグレーになると、雪がちらついてきたりします。

よく言えば、凧あげ日和ですが、凧あげをして遊ぶ人を見かけることは珍しいです。

お正月の歌に、「凧あげ」をすることが含まれているからだったのか?凧をあげたくて仕方がなかったことが子どもの頃にあります。

材料の竹ひごがないにもかかわらず、割りばしで、それらしい形のものを作って、飛ぶことを夢見て、外で走ったことがあります。全く、上がらないことにがっかりしましたが、割りばしなら当然重くて上がりませんよね。

それでも、やりたいことをやってみた満足感はありました。

風呂敷を借りて遊ぶこともありました。

風呂敷といえば、なんといってもスーパーマンです。

両手で持った風呂敷をなびかせて、家の近所を一周すれば、それなりに爽快感を味わえました。

現実は変わらなくても、そういう感じを味わう事で元気になれることもあるみたいですね。



水鳥があちこちで見られるようになっています。

冬になるとやってくるのですね。

寒い日に冷たい水の上で群がる水鳥たちの数も、日に日に多くなっていくのでしょう。

温かくなると、また、寒い南半球へ移動するのですから、「やっと温かくなったのに、冬の気候が好きなの?」って思います。

好みというより自然の摂理にしたがって生きているのでしょうけど…。

バッハの三声のインベンションでシンフォニアといわれる曲集があります。

その中の二番を弾いていて、カッコウの声が聞こえました。

カッコウという鳥も、渡り鳥だそうです。

バッハのシンフォニアの2番を弾いていて、ある発見がありました。

カッコウといえば、子どものころに覚えた「かっこう、かっこう、ないてる。やまのおーく、もりのかーげ。もーうすーぐはるです。」という歌詞で歌っていたのですが、最近になって、「かっこう、かっこう、どこかで。くらい よーる。もりかげーで。さーびしーくないてる。」とかいうような歌詞を見つけました。

子どものころの、カッコウのイメージと違って、陰鬱な雰囲気が漂っています。また、カッコウの習性にも興味がわいたので調べてみました。

すると、カッコウは夜にも鳴くことが多く、子育てに関しても、ホトトギスと同じように托卵といって、他の鳥の巣に卵を産み付け、自分では育てない鳥の種類で、渡り鳥だそうです。

いろいろと暗い性格が見えてきて、ますます、このハ短調の曲がカッコウの曲に聞こえてきました。

3拍子系だからか、なかなかうまく弾けないので、練習していると、暗い雰囲気が続くので、気分を変えてハ長調にして弾いてみました。

カッコウが、日が上ったあと明るい森の中を飛び回りながら鳴いているように聞こえてきます。

最後に、棲みなれた森を離れて、はるかかなたに飛んで行く姿が見えるようです。

ハ短調をハ長調にするだけで、予想していた以上に明るい未来が感じられるので、ぜひ、みなさんもお試しください。



ナンキンハゼの白い実が、こんなに青空に映えるって大発見です。

これなら桜にも見劣りしないかも。

近くでは、やたらとカラスの鳴き声が目立ちますが、鳥たちの冬の栄養源だからですね。

人間が食べると毒らしいですが、ろうそくの原料になるそうですから、エネルギー豊富な食べ物なのでしょう。

桜と違って、これから冬に入る前に実が実るというのも自然の摂理とはいえ、まるで生き物にとって必要なものがグッドタイミングに用意されているみたいです。



今朝は、晴れた日で久しぶりに散歩に出かけました。

水鳥が、水の上にプカプカと浮かびながら、鳴き声もプープープーと聞こえてくると、ちょうどお風呂に浮かんだおもちゃを連想してしまいますが、きっと水鳥にとっては、それほどのんきな生活ではないのでしょう。

この前より、数も増えて、黒い種類の水鳥が加わっています。

黒いのは、たしかオオバンという名前で、鋭い顔つきだったと思います。

今は、ネットで連絡を取り合うことは普通になっていますが、やはり、自然の光の中で見て、機械を通さないで音を聞くと安心できます。

外に出たくなくなってきている時は、意識して外の空気に触れる方がいいですね。

それはそれとして、ネットでしか出会えない人、思いを発信できないときもあるはずです。

ちょうど手紙でしか伝えられないことがあるように。

「相手の目を見て、はっきりと話しなさい。」といわれたことがあるかもしれませんが、すれ違うようにそっと話す時もあるはずです。

きっと、いろいろな話し方があっていいはずですね。

「アルプスの少女ハイジ」はアニメでも有名になっていましたが、実写映画版「ハイジ」をもう一度、観てみたくなりました。

ヨハンナ・スピリ作「ハイジ」は、たしか小学館の名作文学全集でもなじみがありました。

映画も、学校の映画観賞会で観たことがあります。

なぜ、今回、こんな子ども向けと思われる作品を観なおしてみたくなったのかというと、重要な一場面の記憶が薄れていたからです。

それは、ハイジと友だちになったクララが、アルプスの山で歩けるようになるというシーンです。

大きなお屋敷のお嬢さんとして生活しているクララですが、母親を亡くした後、歩けなくなっていたのが、アルプスの山でハイジと遊んでいる途中、ふと歩けるようになる感動のシーンです。

つくづく、こういう出来事は、あまり、注目されなくなってきているのではないでしょうか?

病気で歩けなくなっていた(精神的な原因)人が、歩けるようになるためには、ある人が治った例があっても、誰にでもいつでも適応されることでなければ、採用されることが難しかったりします。

それに対して、薬や道具などの物ならば、何回かのストレス検査で耐用性が証明されれば、価値が認められて採用されます。

クララも、歩けなくなってから車いすを使っていました。

その車いすが壊れることもクララが歩くようになるために必要な要素になっています。

公式で証明したりは私にはできませんが、メンテナンスされていたものがある日、壊れるのは、マイナスの力が働いている中で起こるのでそれだけ起こりにくいはずですが、期待していることが起こることは、プラスの力が働いている時なので、そのほうが起こりやすいように感じるからです。

心理学の概論を読んだりしていると、心理学は人間が、都合の良い行動をとるための要素を洗い出して、それが、いつも起こるために研究しているところがあると思います。

映画を観なおして確認できたことは、クララが歩けるようになるために、必要だったことは、専門的な知識を持つ人でもなく、最新の発明品でもなく、素朴な人の温かい心と、大自然から感じられる素晴らしさだったようです。

音楽にも、目に見えて証明できることは少なくても、期待していることを起こす力があります。

いつ起こるかわからないようなチャンスに期待する余裕って、意外と大切ではないでしょうか。


いやだった幼稚園を卒園して、こんどこそ楽しく通う予定だった小学校。

友だちも作れて、幼稚園と違って学習時間がほとんどなので、幼稚園よりは過ごしやすく思いました。

勉強もまだ、簡単でしたが、風邪で何日か続けて休んでいるうちに、繰り上がりの足し算だったか、繰り下がりの引き算だったかが、終わってしまって宿題だけが出されたとき、わからなくて、みんなと遅れてしまうのだろうか?というのがはじめての学習上の危機感でした。

当時、学習塾もなく、いえ、あっても、通う人は少なかったので、当然、それくらいで利用できるわけもなく、学校で特別に教わることも普通はないことになっていたので、そういうことも考えが及びませんでした。

それで、どうしたでしょう?

指を使って、繰り上がりだったか繰り下がりだったかを計算する方法でとりあえず宿題をすませて、そのまま難しくなっても、要領的にあまりよくなかったかどうかいまだに判断できませんが、そのまま、今でも計算しています。

学校でわからなくても、わかったり、できたりする方法はいろいろあるので、きっとなんとかなるものですね。というより、なんとかしようと思えることが大切なのでしょうか。


学校が教育機関としての役割をはたしていくために、相談窓口を紹介したり校内にもカウンセリングルームを設けるようになりましたが、専門知識を備えた厳選されたカウンセラーで人格的にも申し分なくても、なんとなく話しにくかったりその場限りの話しかできていない場合もないでしょうか?

最近は、ひとりひとりに配布された端末を通じて、先生に相談できるシステムができたそうです。

ただ、深刻な悩みの場合、先生も受け付ける余裕がない場合もあり、子どもにとっても特にいじめに関する内容は、いわゆる「チクった。」といわれることを恐れる場合も考えられます。

問題が起きた子どものために、学校以外の公共の「相談窓口」も紹介されるでしょう。予約がされた時に初めての場所に出向いて相談できる機会を見つけるのも、悩んでいる子どもにとっては難しかったりします。それに、今、すぐ相談したい場合、頼りにできる相談場所は、今のままで十分といえるのでしょうか?

美容師さんが、そういう相談にのったりピアノの先生が相談にのるということもあるようです。

小売店の店主をしている人も、そういう心がけも含めてお店を開いている場合があるそうです。

先生でもなく、お店のあの人にでもなく、家族の誰かにでもなく、その時だけの関係で話したいことがあれば、どうぞ、何か力になれるんじゃないかなと思っています。

ネットが使えるようになった今、子どもさん自身が、出会える機会を広げても良いのではないかと思います。


今は算数にそろばんが入っているでしょうか?


かつて、教科書にちょろっとそろばんが入っていました。


小学生でつまずいた経験の一つはそこにあります。


そろばん教室というものがありましたが、そこにも通ったことがなく、小学校の先生に少し説明されただけで、そろばんを使い慣れた昔の親が、同じようなことをイメージしたため、宿題が長引いただけでなく、口論しているうちに夜が更けてしまいました。


そろばんは、計算をするための手段の一つだと思った私と、読み書きそろばんといわれた親の世代のイメージとして、当然できるようにならなければという期待とのギャップですね。


「君の可能性」とかいう本まで探してきて、気を取り直してそろばんをできるようになってほしかったようです。


そこのところ、その本まで拒否して、ますます、そろばんに対する反感を募らせてしまったというような経験ないでしょうか?

それでいて、親になって自分の子どもには、いろいろイメージ通りに行動してほしがったことはどうしようもないところです。


でも、あの時、そろばんをあきらめたのは正解だったと今でも思います。

方法がいろいろあるなら、自分に合った方法を選べばいいという考えは、親になっても同じです。

音楽配信サービスで、年代ごとに集められたポップス音楽を聴いてみました。

10年ほど前のを一緒に聞いていた、家族から「こんな古い曲」とか言って、「その頃の嫌だったことを思い出す。」というので、その頃あったことを思いだして「そうかもしれない。」と納得しました。

思い出のある音楽を聴くとその時の気持ちを思い起こさせられるのですね。

年配者が若かりし頃の音楽を聴くと、シャキッとするのは身体の記憶が呼び起されるからでしょうか。

ほんとうに不思議でもあり、そういう音楽からの恩恵は大きいと思います。

音楽と言えば、学校の教科の中では、他の教科に比べて実用性がないと考えらえれ軽視されがちですが、長い目で見ると受験が過ぎれば忘れてしまう教科に比べて実用性が高いと思うことは、よくあります。

さきほどの年代ごとにある流行歌が全体的な嫌な雰囲気を思い出させるのに対して、流行歌であっても、その人特有の良い思い出に伴った音楽があれば、それは特別な感情を思い出させてくれるものになるはずだと思います。

何かに行き詰っている時、そういう音楽は、閉塞感から解放してくれる働きがあると思います。

ピアノででも、他の楽器ででも、歌でも、聞こえてくる音楽でも、そんなふうに働きかけてくれる音楽に出会えるといいですね。